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熱血教育コラム 指南の部屋

アフリカで感じた日本の公教育の水準の高さと限界

子どもたちにとって「学ぶ」とはなにか。カリスマ講師・ごとう先生が「教育」について、わかりやすくママたちに語ります。

後藤 武士 先生:1967年(昭和42年)岐阜県生まれ。青山学院大学法学部卒。日本全国授業ライブ「GTP」主宰として、北海道より沖縄・石垣島まで、児童、生徒、父母、講師、教師、会社員を対象に講演。また新進気鋭の若手教育評論家、最強教育指南役としても活躍中。 ⇒オフィシャルサイト ⇒後藤武士先生 著書一覧

~後藤先生メッセージ~
実現可能で、子どもの性格・適正にあった経験的な裏付けをもった学習法を指導したいと思っています。ときには厳しいことも申し上げますが、すでにご定評いただいている救いのあるアドバイスを心がけます。夢を妄想としてしまうのではなく、 数年後の姿とできるよう、一緒にがんばりましょう。

南アフリカへ

20160720.jpg 先月、人生で初めてアフリカの地に足を踏み入れた。

 広大なアフリカ大陸、地域格差も大きい。私を含め多くの日本人がアフリカと言われてまっさきに思い浮かべるエジプトが含まれる北アフリカはイスラム圏。歴史的にはアフリカというよりアラブや地中海沿岸の欧州諸国との繋がりを感じさせる。エジプトと並んで日本人にとってアフリカを代表するイメージのあるケニアがあるのが西アフリカ、やや治安の安定しない国が多い。両コンゴがある中央アフリカやギニア湾岸諸国を含む西アフリカは、カーボデルテなど一部例外もあるものの、おおむね政情不安に加え感染病の流行などがありバックパッカーでも入国をためらう地域。まさに試される大地というところか。

 今回、私が周遊したのは、そんなアフリカの中でも比較的周遊難易度の低い南アフリカ。

 アパルトヘイト廃止やサッカーW杯で有名になった南アフリカ共和国を始め、かつては西アフリカに分類されていたが政治や交通のつながりから昨今は南の一員と分類されることの多いモザンビーク、奇跡の経済成長と称されるボツワナ、それにザンビア、ジンバブエの5ヶ国である。今回の旅を一言で表現するならば、とてつもなく有意義だったけれど再訪はためらわれるといったところだろうか。

見た目と知的レベルが一致している国々

 なにせ何をするにも一筋縄ではいかない。ひと通りの注意を持って行動すれば言われているほどの危険はないのだが、微妙に神経が張りつめる。まわりの人々が皆大きい。黒人も白人も並はずれてデカイ。私も仕事柄多くの黒人や白人の友人はいるが、特に南アで出会った人々は彼らよりひとまわり大きい。差別的な感情などないのだが(というよりむしろ東洋人であるこちらが常に軽い侮蔑を受けている)本能的に感じる怖さはどうしようもない。同じ蜂にもミツバチもいればスズメバチもいるのだから。おおむね英語が通じるのは便利なのだが、彼らが使う英語は独特のもので欧米系のネイティブよりテンポが早く、またリエゾン的な言いまわしが多い。私のつたない英語力では一度では理解できないため、何度か聞き直すことになるのだが、当然彼らはうんざりする。ときには「誰か、日本語わかる奴いないか?」などと大声を張り上げることも。仕方がないのでメモ帳を取り出し筆記し、「ここまではわかったが、この単語の意味がわからないだけだ」と伝えると、「なんだ、一応教育は受けているのか」という感じでようやく相手にされる。さらにこちらのペースを相手が理解したところで、相手の国の国土や歴史に対する知識や軽いジョークをはさむと、態度と言葉づかいが見事なほど変わる。「その通りです、よくご存知ですね、サー」などと。それまでは五十歳になろうとする私を「ボーイ」と扱っていたのに。(苦笑)

 こんなことが何度となくくり返されるうちにあることに気がついた。誰にでもおもてなし精神発揮する我々と違って、彼らは相応の身分なり学識なりがある相手と判断した相手にしかまともに対峙しないんだろうなあと。そしてまわりを見ているうちにもうひとつ発見した。南アフリカ各国で見る限り黒人も白人も見た目や身なりと階層や知的レベルがどうも一致しているっぽいのだ。さすがにこれは自分でも暴論だろうと説を引っ込めようとしたのだが、よく考えてみると成立してもおかしくない歴史的事情に思い当たった。

中国や日本では、誰もがアカデミックな教育を受ける

 欧米やその影響を強くうけた地域では、いわゆる非支配階層に対して市民権などがまず解放され、その後に市民に付与される権利の具現化として教育が与えられる。つまり民主化と教育では民主化が先で教育はあとまわしなのだ。ゆえに公教育による普通教育は、日本の医療における保険内での治療に近いものになる。すなわち国民教育とより実践的な職業教育がそれ。将来高等教育を受けることを前提とした上での、その準備や前段階としての教育はさほど施されない。これらを求めるならプライベート・スクールを選択することになる。プライベート・スクールに通うことができるのは相応の富や身分のある家の者となり、結果として欧米およびその影響を強く受けた地域においては見た目と学識が一致する成人が多くなる

 一方で科挙が存在した中国、寺子屋に代表される庶民教育機関が存在した日本などでは順序が逆になる。低い身分からも学識を認められれば役人に登用され出世が可能。さらに学識を持ちながらも任官がかなわなかった者らが社会に対する問題意識を強く持ち、やがて政治システムの変動をはたす一員となる。まず教育があってしかるのちに民主化がある。だから、これらの地域の公教育・普通教育では国民教育や職業教育もないわけではないが、高等教育につながるようなアカデミック(だが実用性にはやや乏しい)な教育が誰にでも施される。そのために見た目と学識は必ずしも一致しない。ということになるわけだ。日本の場合、そこに加えて過度な平等性の追求、ルックスや運動・芸能に比べて知性を揶揄する傾向があるだけに余計にそれは言えるだろう。

将来的で今しかできない子どものための投資

 今流行の筋トレをしたところで私なんぞがふたまわり以上も大きい彼らに太刀打ちできるとは思えない。だが彼らの祖国、民族の歴史や地理的理解は、彼らの私への態度を大いに懐柔させてくれた。比喩でも何でもなく、まさに知は力だと思い知らされた。というわけで日本の公教育のレベルの高さの恩恵を受けた私ではあったが、同時にこれはひとつの心配を想起させた。それは、グローバル化が進み、日本の国際的競争力は低下し、国内産業の空洞化や人口の減少、それに伴う日本語市場の縮小が明白で、終身雇用も年功序列も崩壊し、いわゆるホワイトカラーにあてがうポストが極めて少なくなっている現在の日本の状況下で、はたしてこれまでのような誰もが大学に進学することを前提としたようなカリキュラムでの普通教育を続けることに意味があるのかということである。いや、意味はある。だがその余裕があるかといえば、国家的にも個人の将来においても否と言わざるをえないだろう。もはや日本には大勢のなんちゃって学士を抱えるような力はない。

 さすがに御上もそのあたりに気がついたのか、義務教育課程におけるキャリア教育の推進などは行われるようになったが、まだまだのんきなものと言わざるをえない。芸術科目の存在やアカデミックだが非実用的な単元の数々、地方の公立によく見られるモノカルチャーに依存した発展途上国を思わせるような部活至上主義など、旧態依然とした感は否めず、はたしてこのままで大丈夫なのかと不安になる。だが幸いなことには、日本ではプライベート・スクールに頼らずとも、公教育を超えた範囲での教育を無償もしくは安価で手に入れ施すことのできる機会が山のようにある。当面はそのあたりの必要性を感じた親は、公に任せっきりにするのではなく、独自にプラスαの教育を与えるようにすることで備えるしかないだろう。とりたてて裕福でなくても幼少期からの歯科矯正を子どもに施す親は多い。教育も、将来的で今しかできない子どものための投資であることに変わりはない。要はそこに気づくことができるかどうかだろう。

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