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熱血教育コラム 指南の部屋

部活モノカルチャーへの危惧

子どもたちにとって「学ぶ」とはなにか。カリスマ講師・ごとう先生が「教育」について、わかりやすくママたちに語ります。

後藤 武士 先生:1967年(昭和42年)岐阜県生まれ。青山学院大学法学部卒。日本全国授業ライブ「GTP」主宰として、北海道より沖縄・石垣島まで、児童、生徒、父母、講師、教師、会社員を対象に講演。また新進気鋭の若手教育評論家、最強教育指南役としても活躍中。 ⇒オフィシャルサイト ⇒後藤武士先生 著書一覧

~後藤先生メッセージ~
実現可能で、子どもの性格・適正にあった経験的な裏付けをもった学習法を指導したいと思っています。ときには厳しいことも申し上げますが、すでにご定評いただいている救いのあるアドバイスを心がけます。夢を妄想としてしまうのではなく、 数年後の姿とできるよう、一緒にがんばりましょう。

部活への入部は本人の意思で決定

20170419.jpg 地球が偉いのか、神様が偉大なのか。よくしたもので、ひたすら暗くやるせないニュースばかりが報道されるようなこの国にも、冬の後にはちゃんと春がやってきている。春といえば新学期。希望や不安に胸をふくらませている若者たち、そしてそれを見守る両親。その尊い姿は世相に関わらず明るい希望を感じさせてくれる。

 新たな学校生活が始まるにあたり、もっとも選択に苦慮することといえば何といっても部活である。学校というのは第一義的には学問を治めるための場所であり、続いて集団生活への適応能力など様々な目的があるのだが、これらの多くは半強制的に決められるもので、クラスも担任も自分自身には選択権はない。が、部活は別である。部活動に属するか属さないかに関しては、法的には任意なのだが、慣習や学校の方針によって今のところ事実上自由は認められていない。だが何部に入部するかについては特殊な事情がないかぎり本人の意思にゆだねられている。この選択が中学生活に与える影響はとてつもなく大きい。場合によってはその後の人生すら左右させるほどの影響力を持つ選択、それが所属する部活動の決定なのだ。

 本来たんなる任意の課外活動でしかない部活だが、現在ほとんどの中学校において転部や退部はきわめて難しいものとなっている。そこから生じる人間関係のもつれはもちろん、本当はあってはならないのだが現実には存在している顧問による恐喝ともとれる転部退部希望の生徒へのプレッシャー。組織の流動性がきわめて乏しく閉じたサークルである学校という団体において中途で籍をはずすという行為はそれなりの代償を支払う必要のあるものとなってしまっている。

現在の部活顧問は外部指導者が多い

 やはり同じく本来は任意であるPTA同様、この問題は昨今大きく取り上げられるようになった。無理に部活をやらされる生徒や保護者と顧問を強制される教師の要望が合致しちょっとした運動に発展したことがきっかけである。だが結果として救われたのは教師の側だけだった。教師は顧問を強制されない。そのために生じる顧問の不在を改善するため、外部指導者の導入を積極的に進める。これが運動の帰結だった。

 これにより教師は救われることとなった。強制的に顧問を押しつけられていた教師に自由な時間が生まれれば教材研究や授業計画にもよい影響を与えることも考えられる。その点においては生徒側にもメリットはないわけではない。が、部活動を第一に考えない生徒や保護者にとっては、今回の改革方針は、そのメリットを秤にかけてもマイナスの結果を招くものだと言わざるをえないだろう。教員免許や教育原理や教育心理の受講経験の有無は問わぬとしても、競技の指導・競技技術の向上・チームや個人の強化以外の面においては、外部指導者の意識はあまり期待できない。もちろん中には情操教育の一環たるに相応しい外部指導者も少なくない。が、保護者クラブなど非営利少年スポーツ団体の指導者の中には体罰を辞さなかったり、たかだか一競技の技量に劣るだけでまるで人間失格であるかのような暴言を平気で吐いたり、母親や父親を小間使いのように使って王様のようにふるまったりする者も少なくないのもまた事実である。

今は個人技が求められる時代

 日本では長い間終身雇用と年功序列が事実上制度として定着していた。そこではわずかな実力差より組織への忠実度や勤勉さが求められ評価された。そういう社会においては部活動で得られる体育会系的気質というのは、そのまま生きる力の主体となった。だからかつては部活動でつちかわれる力が、授業で得られる学力をしのぐ現実もあった。

 しかし今、日本はもはやそういう国ではない。集団競技においてさえも一定の個人技が求められる時代。職業においても一部のぬるま湯のような組織を別にすれば終身雇用も年功序列もとっくに崩壊し、組織や上司に対する忠誠度が高く遅刻や欠席が少ないだけでは戦力として認められなくなっている。そんな時代に旧態依然の部活動的価値観がはたしてどこまで評価されるのか。さらに言い添えればグローバル化という流れもある。その競技のプロを目指すわけでもなく、将来指導者になれるような適性も持たぬまま、職業教育も普通教育も二の次にしてまで貴重な中学高校時代の数年間をたったひとつの競技能力の向上のみに費やす。それは実は危険なことではなかろうか。

ひとつのことしかできない危険性

 かつて東南アジアの国々はモノカルチャーゆえの貧困に苦しんだ。しかし現在はリゾート・観光・金融・貿易拠点・製造拠点など様々な方面で存在力を見せるようになり、いくつかの国はこの日本からの移住を求める人がやまぬほど魅力的な国となった。

 ひとつのことを突き詰める姿勢というのは精神主義と相まって日本では高く評価される。一芸に秀でる者はすべてに秀でるという誤解が日本人には根強い。しかし現実は違う。戦力外通告されたプロ野球選手をあつかったドキュメンタリーに見るまでもなく、ひとつのことしかできぬ者は、何かの事情でそれを失った折には、もろくせつない

 もちろんそれでも夢を追うのもいいだろう。世の中で脚光を浴びている人たちの多くは、ひとつの夢を信じ続け追い続けた結果の成功例である。彼らは間違いなく輝いていて魅力的である。だが輝くことのできなかった人がいるのもまた現実である。ひとりの優勝者を決めるにはその他大勢の参加者が必要なのだから。

部活は慎重に選択しよう

 要は生き方の問題だといえるだろう。そしてそんな重要な問題であるにも関わらず入学後わずか1ヶ月たらず、体験入部わずか数回でなさねばならぬという厳しさ。

 国は1億総スポーツ社会を推進するという。部活動の推進もそのスタートラインだろう。それはいい。健康増進の手段としてもレクリエーションのひとつとしてもスポーツはとても適したものである。だが、それは楽しめるスポーツという前提があってこそのもの。大学のいわゆる飲みサーなどのようにスポーツを口実にただ仲間と楽しくわいわいがやがやするような活動は論外だが、だからといっていわゆるガチ勢にふり回されるのも学校教育の姿としては相応しいとは言えぬであろう。学業と将来に向けての様々な学習、そして学校生活、これに加えてこれらの上に出ることのない範囲で明るく厳しく楽しくなされるのが、学校教育、少なくとも公教育においての部活動のあるべき姿ではなかろうか。

 私はかつて塾を経営していた。そのためか何人もの部活動による犠牲者を見てきた。顧問の「今やめると内申書の響くぞ」という恐喝。「続けていれば最後はちゃんと(推薦など)進路の面倒を見てやるから」という甘い言葉を信じて、引退後は知らん顔をされ怒りと涙にくれながら慣れない受験勉強に打ち込む気の毒な子どもと両親。そんな悲劇は少しでも見たくない。ガチはガチでいい。その覚悟があるならば。ただその場の雰囲気に流されたり一時的な気持ちの高ぶりに惑わされたりして、その後の人生を決めてしまうようなことは避けたい。いわゆるスポーツ推薦で進学していった子どもたちを除いて、多くのガチ勢だった子どもたちが高校や大学進学後は別の部活やサークルを選択したことを付記して、この項を終えたい。よき選択がなされることを。

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